認知症について

 寒空の朝。快晴。今シーズンの本気ダウンは2回目になります。寒くなるとのことですが、お昼の今はとても過ごしやすいです。

 今日、はがきを印刷したのですが、印字が2重になっていたのでサポートの方に来てもらったところ、はがきの用紙設定をしていなかったことが原因でした。言われるように設定して印刷したところ奇麗に印刷されました。私としたことが、なんてことだろうと思ったのですが、近年自分ではがきを印刷したことなどほとんどなかったことと、ネットで検索したところ、機械の故障等の原因が表示されたため、その通りにサポートに来てもらったことが、ちょっと考えさせられる結果となっております。
 いい年齢になってきたので、認知症や、若年性なんとか。。などの言葉がすこしづつ引っ掛かってきており、家でゲームばかりやっている私を心配している家族や知人等のことを少しは考えろよという言葉が、どこかから聞こえてきそうです。

 認知症と言えば、亡くなった父がそのような診断をされ、入院治療などもし、退院しまた入院して最後を迎えたのですが、本当に認知症だったのかについては、当時のドクターもはっきりと断定できるような状態ではありませんでした。今は脳のMRIなどから判断できるようになったようですが、当時よく思ったのが、かつては物忘れやまだらボケなどとして周囲は扱っていてこの状態ではまだ社会が上手に対処できていたお年寄りの人たちも、成熟社会・監視社会を象徴するかの如く、認知症のカテゴリーに入れられてしまいます。介護経験からすれば、とにかくがなりをしないこと、怒らないこと、そうしてしまうと社会生活ができないという区分分けがされて、拘束される方へ向かうことになると思います。
 私が、まだ50代の年齢でありながら、自らが喧嘩したり、あるいは喧嘩ごしの人たちと距離を取るようにしているのは、多分に長年の介護の経験が理由としてあると思います。あとは、自らが育った環境は、高齢になって暴言を吐きがちになった父など信じられないほど、穏やかな家庭や、学校生活に恵まれてきて、ここが私の成功体験の原点にあると確信しているからかもしれません。学生時代、ウマの合わなかった先生がたは、皆、高圧的な方々だったなあ、などと、当時の先生方の気も知らないで勝手なことを言うなと叱られそうなのですが、正直なところこう思っております。

 何が言いたいのかよくわからなくなってきましたが、認知症について思うのは、おそらくは社会コストがこの分野において大幅にかかってくるだろうから、予防医学の観点から、何らかの措置をすることが必要という意見には賛成だということと、以前もブログに書きましたが、安楽死の制度を日本も導入すべきではないかということです。
 終末医療について知識を入手する機会が増えています。この分野に精通したドクターの数は少なく、もっと注目されていい分野なのではないかと思っております。あくまでも今現在、の心境としては、後戻りできない病気にり患して、これからは苦しむだけ、医学的に緩和しかできないという状況に陥った時には、自ら命を絶つ選択もあっていいのではないかと思います。人の命を救うことが至上命題であることは間違いないにしても、一方で、海外に行き自ら命を絶つ選択をする人も大勢いるわけであり、どのように最後を迎えるかの選択肢は他にもあっていいのではないかと思っております。

 70代の方々は信じられないくらい元気いっぱいで、飲み会に同席すると、居酒屋のドリンクメニューをすべて頼んで、延々と騒ぎつづけることができる様です。私などは隅っこで小さくなっていて、焼酎を作ろうとすると「そんなことはせんでよい!」と、原酒のままを自らついでがぶがぶのむほどで、これは参ったと正直に感じてしまいました。そんな方々に申し訳ないような話になってしまいましたが、膵胆肝に不安を抱える私ですが、医師の指導に従い好きに飲んでおりまして、お酒を飲むことによって、体に良くないというアドバイスは一切受けていない通り、飲酒後に体調不良になったことは、この2、3年ありません。米や麦などだけを原料としたアルコールは、自然食品であり、適量なら利あって害なしです。アルコールをほとんど飲んでいなかった、それまでの方が体調は良くなかったことからも、どうぞ、私の飲酒についてはご心配なさらぬようお願い申し上げます。