尊敬する人

 
 
 今日は朝から快晴。近畿地方が梅雨明けし、関東もそろそろだということで、今年はここまでは、異例の速さでの梅雨明けとのことです。ただ、台風がほとんどやってきておらず、こんな年は大雨になりそうな、そんな予感もしております。

 だいぶ暑くなりました。自宅の近くで、鳥取スイカの催し物がありました。路上で味わうスイカはまた格別で、故郷鹿児島で、これ以上おなかに入らないというくらいほおばったスイカを思い出しました。ちょっとした地方創生のイベントでしたが、スイカはあっというまにオフシーズンを迎えますので、この時期でよかったと思います。


 尊敬する人はだれですか、という問いを小学生のころ先生から聞かれた記憶を、多くの人は持っていると思います。だれを答えたか、私の場合、記憶が一切ありません。著名人の方や、歴史上名高い人物など、様々な人を思い浮かべながら、小学生ながらに、誰かの名前を挙げたと思います。私が育った鹿児島では、無難な回答は西郷さんや大久保さんなどといった明治維新の功労者でしょうから、また当時はそう思っていましたのでなんの迷いもなく、「西郷さん」などと答えたのだろうと思います。

 

 年を取るにつれ、このような質問を受けることはほとんどなくなり、幼少のころの記憶は、道徳教育によるものだったとますます思っていますが、まず間違いないでしょう。ただ、このような教育が自分に及ぼす影響は大きいものでしょうし、日本を発展させてきた原点にもなりえるものですから、私はあるべき教育ではないかと思っております。ちなみに、私自身が恐れ多くも「西郷さんや大久保さんのようになりたい」などと考えたことなどは一切なく、西郷さんや大久保さん以外の、目の前の人をみて、こういう姿でありたいとか、このような形で世の中に貢献したいなどと、漠然と考えたことはあります。ただこれは、標準的な多くの日本人男性の感覚なのかも知れません。
 
 わが日本、今更ながらですが、アジア地唯一のG7国であり、江戸の人口は当時世界一であり、算術や、用水などの技術力も世界一であったまぎれもない先進国家であったことを考えると、諸外国の人たちがこのような「尊敬する人」教育を、これまで一度でも受けたことがあるのか、そんな文化が存在してきたのか、少なくともG7の国家だけでも一度調べて見たいと思っております。




 思い返すと、尊敬する人ではなく、人の生きざまに惹かれることは多かったように思います。実際に会って話をしてみて「この雰囲気で、この年齢でこんな私ごときと話せるのは魅力的」というのが私の唯一の指標で、「この年でこんな雰囲気を持つのは自分の理想ではない」という感覚が、尊敬するとかしないとかとは少し異なった感覚で、自分の行動に影響を及ぼしてきたような気がします。

 これまで多くの人と接する中で、「この年齢になって人は変わらないよ」などと世間ではよく言われますが、中には変わる人もいて、しばらくお会いしていない間に、全く様変わりした方もおられます。ここまで変わるからには、数多くのご経験をされたのだなと、その姿に、一種の尊敬めいた感覚を覚えることもあったりします。本当によく生き抜いてこられた、という畏怖のような感覚です。

 先日とある経営者の方とお会いしたのですが、私と同世代の方ですが、スーツをバリッとした着用した隙の無い姿を遠目で見ていた時には、特に感動を覚えなかったのですが、その後近くで会話した際に、彼の手に刻み込まれた数多くのしわや色をみた瞬間に、体が震えるのを感じました。現場主義だとか、実際に会って話をしなさいとか、言い尽くされた言葉ですが、そのとおりでした。良く知りもしないのに、遠目からみただけで、ああだこうだと、想像の中で、その人のイメージを勝手に抱いているのかもしれず、それは極めて狭量なことなのかもしれないと、少し反省した次第です。
 そんな人にはなりたくありません。



 先日とある著名人の方が「日本人は人の足を引っ張る文化をもつ」ということを述べておられました。そうなのかもしれません。イメージ戦略に影響されないように、今後とも、しっかりと日本の姿を見てまいりたいと考えております。
 
 現場主義、現場主義。。。。